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トップ > マツダ デミオ > マツダ デミオ - 人気ブログ(Blog)検索結果詳細 (2008年12月4日 6時)
グアム・4
3日目
今朝も空の写真を撮ろうと思っていたのですが、起きたら空一面鉛色だったので撮影お休み。
朝食の時妹が「ホットケーキとクリームがあるよ」。と教えてくれました。
小さめのホットケーキとフレンチトースト、
それにクリームとメープルシロップ、いろんなジャムが並んでいるのでした。
こっ、ココは天国ですか。
これ、子供の頃からの夢だったんだよな~(写真なし)。

クルーザーでイルカウオッチングツアーへ出掛けたのでした。

全員靴脱がされました。

皆さん初めまして。
左から2番目のニコンぶら下げてるのがオイラです。
ウソです。

しばし船に揺られていると、「あれがサイパン島だ」と教えてくれました。
距離を尋ねてみたら、「多分55マイルだと思う」だそうです。
おおお、アレが噂のサイパンか~。
と思っていたのですが、自宅に戻ってからグーグルアースで見てみたら、
グアムからサイパンまではもっと距離があり、
その手前にはロタ島があって、その島までがちょうど55マイルなのでした。(*´∀`*)

徐々に晴れてきました。
てっきりイルカがいつもうようよしているポイントというものがあって、
そこに真っ直ぐ向かっているのかと思ったのですが、かなりジグザグに走っています。
「きっと魚群探知機とかで反応のあるところを走ってるんじゃない?」
などと話していたのです。
操舵室に上がっても構わない。とのことだったので、見てみることに。
キャプテンは、時々周囲を見回しながら陀輪を回し、
魚群探知機どころから双眼鏡も使わず、
目視で探しているのでした。

乗客の男の子といないいないばあに興じるキャプテン。
米国本土でレストランマネジャーをした後グアムに来てダイビングマスターになり、
その後、船のキャプテンになって8年なのだそうです。

青い海と空を見ると沖縄を連想してしまうのですが、
東京都南硫黄島から南南東にほんの1,300km
星条旗翻るこの海はやっぱりアメリカなのでした。

航行中ふいに消えたキャプテン。(゚Д゚;≡;゚Д゚)

ツアー会社のパンフには、
「まれにイルカを見ることが出来ない場合がありますが、その場合でも旅行代金は返金致しません」
と小さく書かれていました。
出港してから1時間。走れど走れど未だイルカ発見できず。
ところがキャプテンは、たまに周囲をキョロキョロ見て舵を切る以外は、
男の子をあやしたり、「イルカサン、ドコデスカ~?」などとふざけているのでした。
「これは見れないのかもね」などと話していると、
ふいに船長が「イルカ」と指差したのでした。


大きくジャンプしてクルクル回ってザバーンと落水という大技をタダで披露する
元気なイルカもいたのですが、いきなりやるので撮れませんでした。
トレーナーさんの合図で飛んでくれれば分かりやすいのですが。残念。

ということで、無事イルカも見ることができ、港に戻ってきました。
約2時間のクルーズで、手すりにつかまっていないと倒れてしまうくらい揺れたりもして、
「酔うかも」と言っていた妹もまったく酔わずに済みました。

バンでオンワードというホテルに送ってもらいました。
ここで昼食をとって午後のツアーに出掛けるのです。
ところがここでトラブル発生!
ホテルのレストランに入ろうと、朝受け取った昼食用クーポン券の封筒を開けてみると、
券が2枚しか入っていません。
何か受け取ったら、ちゃんとその場で確認しないと駄目ですね。
レストランのウエイトレスさんに事情を話すと、
「2人現金でも構わなければどうぞ~」ということに。
ここで妹が男気を発揮!
レジで電話を借りて、トラブル発生時の連絡先に電話したのでした。
偉いぞ妹! ダメなオイラ_| ̄|○ il||li
ところでオイラはウエイトレスさんに、
「我々は4人だけど、券を2枚しかもらえなかった」と言ったつもりだったのですが、
食事をしながらよく考えてみたら、
「我々は4人だけど、券を2枚しか与えなかった」とか言っていたのでした。
わざわざ不規則動詞とか使っちゃってるところが悲すい・・・。(;´Д⊂)
「きっとあのウエイトレスさん、『ナニあの怪しい中国人?』と思ってるよ~」
と落ち込むオイラに、「大丈夫。中国人は英語上手だから」と追い討ちをかける妹。
オイラの怪しい英語にもかかわらず事情を把握してくれたウエイトレスさんに感謝。
で、肝心のクーポン券のことなのですが、
旅行会社とウエイトレスさんとの間で話がまとまったようで、
我々が食事を終えて出る時には、にっこり笑って「オケー」と言われました。
よかった~。
(続きます)
作者:とり
更新日:2008年12月3日 6時8分
グアム・3
2日目午後
昨日ガロンの水を各部屋に1つずつ買ったのですが、
暑さのせいか2つの部屋とも、既に水が半分以下に減っているのでした。
とても明日1日持ちそうにありません。
部屋に荷物を置いて、昨日の店に水を買いに出掛けました。
2ガロン水を買って、ホッとする間もなくもう迎えのバスが来る時間。
海中展望塔と、ポリネシアンディナーショーへ。

海中展望塔→■
橋の突端の丸いののところから螺旋階段で海底に下りて海を見ることができるようになっています。
ところで夕日スキーの方は上の写真でピンときたかもしれませんが、
左側を見ますと・・・
こうなっているのでした。
せめてあと30分早く到着したかったです。
後ろ髪を惹かれるように海底へ。

窓の向こうに人がいて、エサをばら撒くと、

ウオまっしぐら!
海中展望台は、それはそれで確かに興味深かったのですが、
オイラにとっては、海の向こうに沈む夕日と雲の方がはるかに気になり、
「先に上がってるから」と言い残して見学もそこそこに桟橋で写真を撮ることに。


SSとかISOとかいろいろいじりながら撮っていると、
「こんな工場のところで撮りたくないわよね」という通りすがりのおばさんたちの声が。
放っといておくんなまし!!
これからがオイシイ時間帯なのでまだまだ撮っていたかったのですが、
残念ながらバスの出る時間。
バスですぐ向かいのポリネシアンディナーショーへ。
入口入ったところで、裸足で上半身裸のお兄さんと写真を撮るようになってました。

各自飲み物を注文した後はバイキングになっているのでした。
昨日から散々肉食ってるのにまた肉。

注文したドリンクが運ばれてきました。南国っぽいですね~。
各種アイスクリームも食べ放題なのでした。
「もしかしてココは天国?」などと言いながら妹とアイスをガリガリ取ったのでした。

ひととおり食事を取り終わった後、ポリネシアンダンスが始まりました。
客席のすぐ前が川になってて、船でゆっくり登場するおねーさん。
フラダンスのようなゆっくりとした幕開け。


突如激しいテンポに。
この後はゆっくりだったり激しかったり、いろいろでした。
知識ないのでこんな説明しかできません。
すみません。
上のダンサーのお兄さんが突然、
「ドーーーーン ダーーー ケーーーーーー!! 」
と叫び、会場は大爆笑。


ん~。やっぱりOTOKO さんみたいには撮れないゼ。

てっきりステージ上のダンスを見ているだけだと思っていたのですが、
突然ダンサーが客席にやってきて、

客を次々テーブル席中央に引っ張って行くのでした。


これがまたみなさん恥ずかしがりながらもうまく踊るんですよ。
突然引っ張り出されてよく上手に踊れるもんだなー。
それとも「できる」人を的確に選抜し、こういうのは死んでもムリなオイラを
確実に排除するダンサーの眼力がスゴイのでしょうか・・・。

子供たちもレイをかけてもらい、

大喜びで踊ってました。
なんでみんな、こんなに上手なの~??
もしかして普段からポリネシアンダンスの極秘特訓でもしてるの??

客席にやってきてファイヤーダンスを始めたものの、炎が消えてしまい、
客から借りたライターで再点火。
ライター貸してくれた客と握手。
もしかしてこれも演出??

ギャー!!



いつの間にか観客も全員立ち上がり、大声を上げ、手をたたき、
こうしてグアムの夜は更けていくのでした。
(続きます)
作者:とり
更新日:2008年12月1日 5時45分
グアム・2
2日目
6時頃起床。
現在グアムは雨季で、台風シーズンでもあります。
「雨季」といっても降るのはスコールで、1日中雨ということはあまりないそうです。
昨晩の予報で「明日は雨時々曇」と言っていたのですが、カーテンを開けると、

「どこがやねん!」という青空。
早速カメラを取り出してカシャカシャ。
(って、既に上の写真はカメラ取り出して撮ってるんですけどネ)


グアム滞在中、朝食は毎日ホテル内のレストランでバイキング。
窓が大きく、青い空と海の見渡せる店内に入ると、ウエイトレスさんが「モーニン」と
にこやかにテーブルに案内してくれます。
メニューは、和洋中、いろいろ揃っていてすんごい豪勢でした。
「4日あるからちょっとずつ制覇しよう」と考えていたのですが、
女性陣はまるで今日がセールの最終日といわんばかりの勢いで、
嬉々としてすんごいいろいろ取るのでした。
そしてまたも「食べきれない」といろいろオイラの皿に集まり、
母からもドーナツが。
Σ(゚Д゚;) 母までも取り過ぎ!?
9:25 観光バスで島内観光へ。
ホテルの玄関に出ると、実弾射撃送迎無料みたいなことが書かれています。
昨日の怪しいおじさんは、「今日は水曜日だから無料」とか言ってたのですが、
ひょっとしていつでも無料なんじゃ・・・。
バスで観光地めぐりなんて、修学旅行以来です。
みなさんはとてもラッキーですね」。
と言って、いきなり歌い出しました。
「♪アメリカではハワユー
フィリピンでは、なんとかかんとかー
でもグアムでは ハファディー♪」
訳:とり

ガイドさんから「日本軍の戦車デス」と言われて慌てて撮った写真。
詳しい方だと、この写真だけで、「ああ、これは○○式」と分かるのでしょうね。
後日じっくり見たかったのですが、結局見ることができませんでした。

アプガン砦→■
スペイン軍の大砲のレプリカ


ヤシの実ジュースの屋台がありました。
注文するとナタで慣れた手つきで割り、ストローを刺してくれます。
ヤロー同士で写真のようなことをすると、刺されるかもしれません。
飲み終わると、更に半分に割って、内部を覆っているゼラチンのようなものをこそいで
ワサビ醤油をつけてくれます。美味しいのでした。

ラッテストーン公園→■
この不思議な形の石柱については諸説あるようですが、ガイドさんは
「高床式住居の土台デス。膨らんでる部分はネズミ返し。日本と同じデスネ」。
と説明していました。

文字が見難くて申し訳ないのですが、日本軍が島民に作らせた防空壕。
みんなで中を潜り抜けることに。
この写真を撮っていたらすっかり取り残されてしまい、1人で後を追ったのですが、
みるみる暗くなり、リアル鳥目なオイラは完全に何も見えなくなってしまいました。
手を前に伸ばして恐る恐る進んだのですが、手が何かザラザラしたものに触れ、
行く手を阻まれました。
どっちに曲がるのか、まったく分かりません。
階段があるのか、このまま平面なのか、出口まであとどれだけこの状態なのか・・・。
ほんの1分前まで、南の島でヘラヘラ写真撮ってたというのに、
なんでオイラはいきなりこんなピンチなことに・・・(XДX)
試しに左の方に手を伸ばしてみたら何にも触れなかったので、
とりあえずそちらにちょっとずつ足を伸ばして進んでみることに。
するとふいに明るさが戻り、あっけなく出口に出ました。
既にみんな少し離れた場所でガイドさんから何か説明を聞いています。
オイラもこっそりその集団の後ろについて、つい今まで涙目になってたことなど
微塵も感じさせないのでした。

・・・。

スペイン広場→■
歴史的な建物がたくさんあり、ボロボロ崩れかけた建物もあって
いろいろ撮りたかったのですが、時間に限りがあって撮れないのでした。
むむむ・・・。
ツアーだと名所を効率よく回れるのですが、まったくもってせわしないです。

DFSギャラリア→■
ここではお買い物タイムが1時間あり、
建物の端のバス乗り場集合ということになりました。
(妹たちが)いろいろ買い物をして、バス停に行ってみると、
日本の高校生の修学旅行生のグループと居合わせました。
チャモロ人のガイドさんがいろいろ話しかける中、1人ベンチに腰掛け、
一心不乱に週刊ジャンプを読んでいる男子生徒が。
まあオイラも日曜の晩に帰国して、木曜発売のモーニングがゲットできるか
不安だけどもさ。






みんなアイス食べたり記念写真撮ったりしてましたが、
そんなのそっちのけで写真撮ってました。
ツアーはここで解散。後は自由行動です。
ここは1階には様々な土産物屋、2階はフードコートになっており、
食事をしたりお買い物をして、
各自旅行会社から受け取ったチケットを使ってバスに乗り、ホテルに戻ることになっています。
まずは2階に上り、昼食。

「せっかくだからジャンクにしよう!」ということで、全員ハンバーガーセットを注文。
やっぱり一つ一つサイズがデカイです。
上の写真だと大きさが伝わりませんが、ドリンクは1ℓは入ってそうだし、
ポテトはバケツですくったか、というくらい入ってます。
バンズもモチモチでズッシリ重く、肉も分厚いです。
日本なら、セットにもう1つなにかハンバーガーをつけるところなのですが、
ここではセットメニューを完食するのが精一杯。
ところがです。

飲み物、ポテトを残して、更に金を払ってアイスを買いに走る妹たち・・・。
既に注文したものを大量に残してまで甘いもののために金を出すとは。
そして例のごとく、「食べてもいーよー」と、
食いかけのハンバーガーなどオイラに寄こそうとする始末。コリャー!
「そこまでして甘いものを食べずにはおれないワケ?」と尋ねると、
「別腹別腹」と言われました。よくわかりません。
食後、女性陣は1階でショッピング。
オイラは荷物番で独りテーブルに残されました。
日記を書きながら待っていたのですが、猛烈な睡魔が。
(ここは平和な日本じゃない。いつ何時被害に遭うやもしれぬ)
落ちてくるまぶたをこらえ、必死に書き続けるも、時々飛ぶ意識。
しかし待てども待てども戻って来ません。
30分経ち、1時間経ち、それでも戻りません。
(遅い・・・。まさかオイラを置き忘れてホテルに戻ったとか??)
オイラのテーブル周辺は女性陣の荷物に囲まれているため、
探しに動くこともできません。トイレにも行けないじゃん。(;´Д⊂)
こんな時、携帯を持っていればすぐ済む話なのですが、
あいにく誰も携帯持ってません(母は国内専用のを持ってるけど)。
結局女性陣が買い物から戻って来たのは1時間半後。
「女性の買い物は長いからねー」とか一般論でケムに巻かれました。
その後、乗り合いバスでホテルに戻ることに。
ツアー会社からもらったカードで、指定のバスには旅行中何度でも無料で乗れます。
ガイドブックを見ると、バスに乗るには所定のバス停で待ち、
乗りたいバスが来たら手を上げて乗ればよろし。と書かれています。
この説明で本当にちゃんと乗りたいバスに乗れるのかはなはだ不安なのですが、
肝心の降り方がどこにも書いてありません。
(降りる時には一体どうすれば・・・)
買った物や、未だ買いたいものについて楽しげに話している女性陣を尻目に、
実はこれが昨日から心配だったのでした。
バス停に行ってみると、幸い我々の乗るバス停にはホテル行きのバスしか来ないようでした。
これで違うバスに乗ってしまい、知らないところに連れて行かれるという心配はなくなりました。
しばし後バスが止まりました。
早速乗ろうとすると、運転手さんから「待て!」と言われました。
降りる人が先。
乗る時に運転手さんからどこまで行きたいのか尋ねられ、
「ホテル・マリオット」と言うと、うなずいて親指をグイッと車内へ。
これでホテルまで行けるハズ。

バスで護送される容疑者。

開放感万点の車内。
一緒に乗り合わせたお兄さんが「最高最高!」と気持ちを言い表し、
日頃無口なオイラも思わず「ヒャッホー!」と叫びたくなったのでした。
叫びませんけど。

「車内から手や足を出さないでください」などという注意はなし。
公園の遊具による事故が問題化すると、全国で該当する遊具が駆逐されてしまうような国では
こういうのは無理だろうなぁ、などと思いました。
我々の乗ったバスは、ホテルに行くまでにたくさんのバス停に止まるハズなのですが、
降車ボタンもないのに、確実に乗り降りのあるバス停にしか止まりません。
どうやら、客の降りるバス停をすべて記憶しているらしいです。
すごいぞグアムバス!
こうして無事、ホテル前のバス停で降りることが出来たのでした。
(続きます)
作者:とり
更新日:2008年11月29日 5時0分
■ヒコーキ関係の雑談・リスト■
2005年
空港がいっぱい (全国に空港、飛行場はいっぱいあるという話)
飛行場の跡地 (オイラの地元の飛行場跡地の話)
ボーイング王国日本(今後日本がボーイング王国になってしまうという話)
太平洋無着陸横断への挑戦(挑戦の様子を年表形式でまとめたような話)
御巣鷹山の事故のこと (事故について思うことの話)
3レターコード (3レターについての話)
飛行機の燃費節約(ヒコーキ流燃料節約術の話)
さようなら YS-11(YSについての話)
2006年
エコノミー席での背もたれ倒し(エコノミーで背もたれを倒すのはやめませんか?という話)
災害とヒコーキ (新潟中越地震とヒコーキの話)
一ヒコーキ好きの嘆き(ヒコーキマニアの自虐ネタの話)
日航機ニアミス判決(判決についての話)
ヒコーキはなぜ飛ぶか・1(空気はスゲー重いという話)
ヒコーキはなぜ飛ぶか・2(ヒコーキはスゲー軽いという話)
あなたもパイロットになれますか?(人を陥れる話)
ベルヌーイvsニュートン・1(ベルヌーイで世界中が納得しているかと思ったら大間違いという話)
ベルヌーイvsニュートン・2(ベルヌーイの疑問点の話)
ベルヌーイvsニュートン・3(それぞれの言い分の話)
乗客が全員力士だったら(それでもヒコーキは飛ぶか?という話)
大西飛行場のその後(大西さんの夢はまだまだ続いているという話)
戦闘妖精雪風・DVD(雪風カッコイイイイイ!という話)
「機長、コーヒーです」(自衛隊関係者の皆様、ゴメンなさいという話)
気をつけなくっちゃ(マスメディアのヒコーキ話には結構ツッコミどころが多いという話)
本当の幸せとは(パイロットもいろいろ大変。という話)
YS-11企画展@所沢航空発祥記念館(YSイベントの話)
所沢航空発祥記念館(行ってきました。という話)
鳥人間コンテスト(同コンテストについての妄想記事)
UFO(UFOの正体にするどく迫った記事・笑)
A380の翼面荷重(A380の翼面荷重を他機といろいろ比較してみた話)
ヒコーキ雲(ヒコーキ雲ができる条件の話)
羽田空港の駐車場(P1,P2)(P1,P2の利用法の話)
2007年
福岡空港の今後(についての妄想記事)
ぼくは航空管制官(について熱く語った話)
ぼくは航空管制官2(同上)
空港ランキング(ビューベスト5)(今まで見た中で、眺めのよい空港の話)
空港ランキング(マニア度 ベスト5)(今まで見た中でマニアックだった空港の話)
空港ランキング(家族でドライブ ベスト5)(今まで見た中でドライブにお勧めな空港の話)
ボン社事故(Q400胴体着陸関連の妄想記事)
ヒコーキ好きにとって魅力的な空港
新石垣空港建設計画
ホンダエアポート/飛行船
石垣空港の跡地利用
入間基地
PAN AM Tシャツ
新潟空港阿賀野川側からの撮影情報
B787・1 開発開始までの迷走
B787・2 開発開始
4レターコードの ”とり説”(改訂版)・1(4レターの法則についての妄想話)
4レターコードの”とり説”(改訂版)・2(4レターの法則についての妄想話・2)
那覇~下地島 運休
B787・3 ロールアウト~
ブログ紹介
新潟空港
波照間路線の今後(エアードルフィンさん、引き継いでくれるの? という話)
名古屋空港事故
京浜島つばさ公園
いわて花巻空港の展示物
波照間路線の今後・2(エアードルフィンさん、ありがとう!!という話)
妄想ドライバーの日々(運転中、パイロットになりきってる人の話)
波照間路線の今後・3(RAC波照間便廃止、という話)
2008年
交通機関とエコ その1(三乗の法則のちょっとおさらいの話)
交通機関とエコ その2(まずは船にダメ出しする話)
交通機関とエコ その3(列車にダメ出しする話)
交通機関とエコ その4(ヒコーキにダメ出しする話)
交通機関とエコ その5(鉄道活用の話)
岐阜県・各務原(各務原すげー!という話)
かかみがはら
航空宇宙博物館
岐阜基地
さくらの山公園(成田空港さくらの山公園からヒコーキ撮影した話)
羽田 つばさ公園・1(つばさ公園から撮影。出発から日の出前までの話)
羽田 つばさ公園・2(すごく眩しかった話)
羽田 つばさ公園・3(あんまり眩しくない話)
羽田空港(鶴丸ゲットした話)
ぼくは航空管制官3(ぼく菅3 出たよ!という話)
運休、廃止(福島空港、佐渡便の話)
ふくスカ桃祭り 2008・1(カンクリさんに会った話)
ふくスカ桃祭り 2008・2(室屋さんを見た話)
新サービス?(ここはドコ?という話)
松山空港周辺の掩体壕(下準備大事!という話)
高知空港周辺の掩体壕(結構作るの大変だった記事の話)
香川県・さぬきこどもの国(ワイエスヤッホー!という話)
ふくスカ・1(リンゴ祭り・午前の話)
ふくスカ・2(リンゴ祭り・午後の話)
山本五十六記念館(翼にショックを受けた話)
旭伸航空(見納めの話)
東武東上線物語・1(鉄道の話)
東武東上線物語・2(杭の話)
東武東上線物語・3(戦時の話)
東武熊谷線物語・1(橋を架けよう!という話)
東武熊谷線物語・2(橋架からなかった話)
映画 ハッピーフライト(珍しく映画の話)
作者:とり
更新日:2008年11月28日 15時48分
グアム・1
1日目
午前4:20 車で実家に母と妹を迎えに。
(朝4時台にバス停で座って待つのは寒かろう)と、
自宅を出る時間をギリギリに遅らせてあるというのに、
「朝食買うからコンビニ寄って」とのたまう妹。
「エッ! この携帯グアムでは使えないの?」と本気で驚く母。
うぅ、早くも振り回されそうな悪寒・・・。
そんな母と、母の遺伝子をいろいろ受け継いだオイラと妹2人の4人で
一抹の不安を覚えつつ成田行きのバスに乗ったのでした。
バスは2週間前に完全復旧した首都高5号線を通って成田へ。
ほぼ定刻通りの到着だったのですが、空港手前の検問所で止められました。
係官が2名乗り込んできて、全員のパスポートをチェック。
要した時間はほんの2~3分でしたが、
改めて成田はそういう空港なのだ、ということを思い知らされました。
朝食の時、女性陣から「食べ切れない」と、
残ったリンゴ、キュウリ、モチがすべてオイラに集まり、すごいことに。(XДX)

海外に行くのは2回目で、前回も成田からだったのですが、
前回は手続きも全て30人の団体行動だったので、約3時間かかりました。
今回は1時間ほどですべての手続きが終わり、サテライトに移動するシャトルに乗って
「もうシャトルか~」と拍子抜け。
時間になり機内へ。
事前にネットでチェックイン、座席指定をしてあり、2階席の窓側を2つ取ったのでした。


はほぼ定刻通りの出発でした。
グアムまでは2,500キロ、約3時間半のフライトです。
途中、+1時間時計修正。

左のパスタ、下に熱い金属板が敷いてあり、ホカホカでした。
ただし熱を加え続けているせいか、麺はちょっと柔らかめ。
味付けは美味しかったです。

一昨年コンチネンタル航空に乗った時には、アルコールとおつまみのセットで
$5.0 or 500円だったのですが、今回は無料なのでした。
早速飲酒する妹。

機内食の後、アルコールを呑んだところで入国審査用書類の記入タイム。
クラクラした頭であちこち間違えて書き損じてCAさんに新しい用紙をもらったり、
書き方を教えてもらったり、エライ苦労して、せっかく窓側に座っているのに大変!ひー。
14:30 グアム到着。
緊張の入国審査・・・のはずだったのですが
どのブースでもニコニコおしゃべりしながらの手続きで緊張感は皆無なのでした。
ニューアーク空港の時は、係官はすんごい無愛想だし、
銃を持った兵士みたいな人たちに取り囲まれたというのに。
入国審査の列で待っていると、恰幅のいい初老の係官が書類の事前チェックをして回っています。
「パーフェクト!」とか「ユア・ワンダフル!」などとにこやかに言いながら書類を見てました。
入国審査用の書類には、「ハファディ! みなさんを歓迎します」と書かれていました。
Σ 既に歓迎デスカ!
すんなり手続きが済み、荷物を受け取って送迎用のバンでホテルに送ってもらいました。
運転手は陽気なチャモロ人で、「ホテルまで10分デスヨー!」と言われました。
実は旅行4日目にレンタカーを運転するのですが、
右側通行、左ハンドルはオイラ初めて。
ガイドブックでは、「交通ルールの違いから、うっかりすると重大事故を招きやすい」
などと脅し文句が書かれているのですが、
「左利きは左右の認識が薄い(弱いともいう)」というし、そういう自覚もあるので、
左右逆ということにそんなに囚われることはないだろう、
それに沖縄の離島の死ぬほどのんびりな運転を見ているので、
グアムはもっと南国だし、まあ、大丈夫だろう。と呑気に考えてました。
ところが行き交う車の速さと、いつもとまったく逆の動きをする車にクラクラしました。
特に交差点を曲がる時の逆の世界がコワイです。
マンハッタンほどの殺気立った雰囲気や絶え間なく鳴り響くクラクションなどはないものの、
空港からホテル街周辺の道路は時間帯のせいもあり、非常に混雑していて、
しかも結構スピード出してるのでした。
果たしてこの流れに乗れるのか、まったく自信がありません。
不安になってきました。(゚Д゚;≡;゚Д゚)
(ヤバイ。考えが甘かった・・・。レンタカー借りるまでによく見て慣れとかないと。)
ホテルに到着してまずは館内にデスクを構えている利用旅行会社に案内され、
そこで今後の説明を受け、書類を受け取りました。
ウチの家族の特徴として、「何も決められない」というのがあります。
先頭に立って引っ張っていける人がいないのです。
人任せなくせに、後から「こんなじゃなくて、もっとあんながよかった」
とか後ろでブーブー文句垂れるという、最悪の家族です。
そしてますます先導役を引き受ける気が失せるという悪循環・・・。
今回の旅行も、終日フリーの日が多いと、
「今日はどうする?」
「さあ? どうする?」
などと不毛な問答が延々続き、途方に暮れてしまうのは目に見えています。
そこで4泊5日なのですが、最初の3日間は、
食事も含めてギッシリ予定が組まれているコースを選んだのでした。
早速今日の夕食はビーチサイドのレストランでBBQの予定だったのですが、
ここで上の妹が、「疲れているので私は部屋で休みます」と。
Σ(゚Д゚;) 確かに体力ないけど、エッ!もう?

ホテルのロビーはココナッツのような、バニラのような、甘い香りが漂っており、
よく冷えたティーとフルーツジュースが自由に飲めるのでした。

部屋に入るなり早速ベランダに出て写真を撮るオイラ。
10階の部屋で、海が見渡せます。
「生水は飲まないのが無難」とのことだったので、
グアム滞在中の飲み水は買うつもりだったのですが、
室内備え付けのエビアンは1ℓで$4.0。高っ!
部屋に落ち着いて、夕食まで時間があったので下の妹とちょっと水の買出しに出掛けることに。
ホテル内の売店を覗いたら、水以外にも結構日本の飲み物、
つまみがたくさん置かれていたのですが、こちらもしっかりホテルプライス。
地元スーパーで買おうとホテルの玄関に行くと怪しいおじさんから
「実弾射撃できるヨ。今日は水曜日だから送迎無料ネ」と声をかけられました。
ん~。ちょっと撃ってみたい気もするけど、時間ないな~。
すぐ近くに店発見。前が駐車場になっていて小さい店がずらりと並んでおり、
外にデカイ外人さんがたむろしていていっせいにこちらに視線が集まるのでした。ひー。
店内は、入ってすぐのところがネカフェ?になっており、
奥にはパン、スナック、弁当、飲み物など並んでました。
一番奥に水がガロンで売られており、1ガロン(3.75リットル)で$1.49なのでした。安い!
部屋が2部屋に分かれているので、水2ガロンと菓子パン購入。

備え付けの水と、買って来た水。


レストランに連れて行ってもらう時間になったので、ロビーで待つことに。
上の妹は復活し、全員で出掛けることになりました。
ロビーで待っていると、黒人の男の人が入ってきて、
ロビーに備え付けの例の飲み物を立て続けに何杯も飲み干し、
それからおもむろに我々の方を振り返り、「トーリーサン?」と尋ねられました。
・・・グアムだなぁ。(*´∀`*)
店に向かう途中で激しいスコールに。
信号待ちしていたバンが発進しようとすると、タイヤが空転してなかなか進みません。
そういえば「グアムは舗装にサンゴを使っているので、雨の時は路面が非常に滑りやすい。
雪道を運転する感覚で慎重に」と書いてあったっけ。
オイラが運転する時は雨降りませんように・・・。

店内に入ると、すぐテーブルに案内されました。
すでに炭は真っ赤になってて、後は大皿の食材を焼くだけ。
量がすげかったです。

miffyさん、載せましたよっ!
(ショボい写真で申し訳ないです)
テーブルのすぐ目の前に白い砂浜と海が広がっていて、
海側の壁は取り払われているため、潮風が流れており、煙が滞留しません。
開放感満点なのでした。
パンフでは、「ビーチサイドで美しいサンセットを眺めながらの食事をお楽しみください」
とあり、その下に小さく、
注:サンセットの時間帯でない場合があります
と書かれていたのですが、まさにその「でない場合」で、浜はすっかり真っ暗なのでした。
オイラとしては、BBQよりもむしろビーチに沈む夕焼けが撮れるかも。
と楽しみにしていたのですが・・・。とほほ。
グアムの経度は北海道と同じで日の入りは早く、
6時には真っ暗になってしまうのでした。
ところで食べている間、オイラには1つ不安なことが。
食べ終わったら、どうやってホテルに戻ればいいんでしょうか?
出されたものを平らげ、テーブルで記念写真など撮り終え、
「どうやってホテルに戻ったらいいかわからなくて、さっきから途方に暮れているのだ」
と懸念を伝えるオイラ。
押し黙る家族。
・・・とりあえず目の前の砂浜に出て記念写真など撮ってみつ。
それでも事態はかわりません。
テーブルに戻ってみました。
あ~。この先一体どうすれば??
妹たちが「レジの方に行ってみよう」と言い出したので、試しに行ってみることに。
レジの人に「ホテルに戻りたい」と言ってみると、すぐ手招きで出口に案内され、
外にはここまで送ってくれたおじさんが待っているのでした。
よかった~。(;´Д⊂)
オイラはテーブルで待っていればなんとかなるのかと思ってたのです。
このまま一生テーブルのとこで固まっているところでした。
部屋に戻り、シャワーを浴びようとしたのですが、
栓を回しても蛇口から水が出るだけで、シャワーから出ません。
切り替え栓はないかとあちこち探したのですが、
余分なものはというと、なんか蛇口の上に付いているツマミのみ。
そしてそのツマミを引っ張っても状況は変わらず。
無事に戻れたと思ったら、今度はシャワーですか・・・(XДX)
フロントに聞いたところ、水が勢いよく出ている状態でこのツマミを引っ張ると、
少ししてから「ゴボボ・・・」と音がしてシャワーに切り替わるのでした。
難しいよ・・・。
というかですね、
分かるカッ!!
知らないところに行くと勝手がわからないことが多くて、驚きの連続です。
10:30 おやすみなさい。
(続きます)
作者:とり
更新日:2008年11月26日 5時0分
とり日記
ビックリしたこと2つ。
まだ残ってたテレカを使い切ろうと、某コンビニに寄った時のことです。
雑誌コーナーのガラス越しに公衆電話が設置してあり、その前は駐車場になっているという、
郊外によくある形態の店舗でした。
テレカを入れ、番号をプッシュして・・・
駐車場を背にして電話に意識が集中していると、突然”ヒザカックン”されました。
ここは少し離れた所にオイラの会社があり、社員の通り道になっています。
(きっとだれか同僚に違いない。誰だ、外でこんなことするオチャメな奴は・・・)
ニヤーとしながら振り返ると、それは人ではなくて乗用車のバンパーなのでした。
オバチャン、怖いよ!
Σ(゚Д゚;) そういえば車止めは? もしかして乗り越えて来た??
もう一つ。
先日車を運転していた時のことです。
狭い道を走っていると、対向車がやって来ました。
見ると、前方の信号がちょうど青に。
すれ違いが出来ないこともないので、そのまま強引に交差点に飛び込もうか、
という考えも一瞬よぎったのですが、オイラ側の前方に譲るスペースがあったので、
速度を緩めてそこですれ違うことに。
対向車のドライバーさんもすぐにくうきを読んでくれ、手を上げて素早く通過。
スムーズにすれ違い、ロスタイムを最小に抑えることができました。
多分数秒遅れで済んだハズ。
幸い信号はまだ青!
ヨシ、イケー! と、交差点内に進入しようとした瞬間、
目の前を信号無視ダンプがガーッと通過。
ABS作動!(☆Д☆)
・・・ビックリシタ。
もっとも、ダンプが目の前を通過している時点で、
ブレーキ踏まなくてもぶつかりっこないんですけどね。
この交差点は左右が壁のようになっていて見通しが悪く、
こんなにきわどいタイミングではなかったのですが、以前も似たようなことがあり、
自転車も通るので念のため用心はしていたのですが、
本当に視界いっぱいに突然ダンプという感じでした。
ホンダエアポートのとこから川越市街方面に出る小さい交差点といえば
地元の方は分かるでしょうか。
あとコンマ数秒遅かったり早かったりしたら、
今頃のほほんとブログなんか書いてなかったです。
運転してるとこういう、「あとほんの少し○○だったら・・・」ってこと、ありますよね。
仕事中の運転だったのですが、コレ、まかり間違ってれば、「殉職」ってこと??
その後、運転中ドキドキしながら考えました。
(もしもあそこで対向車に道を譲っていなかったら。
・・・何事もなく余裕で交差点を通過していたハズ。
譲ったせいでアブナカッタじゃん。。。)
・・・美談でもなんでもありません。
(おわし)
(次回から南の島強化月間です^^)
作者:とり
更新日:2008年11月24日 6時58分
映画 ハッピーフライト
世事に疎くて、タイムリーネタには縁遠い当ブログですが、
それもヒコーキ友のY氏に勧められて初めて公開を知ったという・・・^^;
ANAのダッシュ400を15日間運行から外して撮影したのだそうです(Y氏情報)。
で、感想なのですが、
突っ込みどころをあげつらうのはヲタっぽいので控えますが、
(よくANAがこの脚本で許可したなぁ)というのが第一印象でした。
この映画を観て、
「やっぱJALじゃなくてANAだよな~!」
と思う人は恐らくいない気が。^^;
「今度から新幹線じゃなくてヒコーキ乗ろう!」
と思う人も恐らくおりますまい、
それでもヒコーキのカッコよさ、取り巻くたくさんのスタッフによって
運行が成り立っているというのはよく伝わってきます。
ヒコーキ好きなら面白いと思いますよ。
出演しているヒコーキヲタの言動、彼らに向けられる冷ややかな視線、
身につまされますた・・・_| ̄|○ il||li
いえ、オイラは誰がどう見てもちゃんとした普通の一般人ですけどね。
作者:とり
更新日:2008年11月22日 5時0分
■オイラが行った空港のリスト■
92:北海道・当麻滑空場
91:北海道・滝川市グライダー滑空場
90:北海道・たきかわスカイパーク
89:北海道・美唄農道離着陸場(スカイポート美唄)
88:北海道・新篠津滑空場
87:北海道・北大夕張川滑空場
86:北海道・札幌飛行場(丘珠空港)
93:北海道・アップルポート余市
85:北海道・新千歳空港
84:北海道・白老滑空場
83:北海道・鹿部飛行場
82:北海道・函館空港
80: 北海道・奥尻空港
81:北海道・旧奥尻空港跡地
東 北
17:青森県・青森空港
13:青森県・淋代海岸
12:青森県・三沢空港
18:秋田県・大館能代空港(あきた北空港)
67:秋田県・四ツ小屋滑空場
66:秋田県・旧秋田空港跡地
19:秋田県・秋田空港
16:岩手県・花巻空港(いわて花巻空港)
〃 新ターミナル建設予定地
20:山形県・庄内空港
14:山形県・山形空港
68:宮城県・瀬峰場外離着陸場(セミネ飛行場)
104: 宮城県・霞目飛行場
15:宮城県・仙台空港
69:宮城県・角田滑空場
70:福島県・ふくしまスカイパーク
11:福島県・福島空港
(COMPLETE)
65:栃木県・小山絹滑空場
10:茨城県・阿見飛行場
09:茨城県・竜ヶ崎飛行場
08:茨城県・大利根飛行場
07:千葉県・成田国際空港(成田空港)
64:群馬県・板倉滑空場
03:群馬県・大西飛行場(運用当時)
〃 (廃止後)
62:埼玉県・羽生スカイスポーツ公園
63:埼玉県・読売大利根滑空場
52:埼玉県・妻沼グライダー滑空場
106:埼玉県・児玉飛行場跡
105:埼玉県・松山飛行場跡
04:埼玉県・ホンダエアポート
107:埼玉県・坂戸飛行場跡
60:入間基地
42:埼玉県・所沢飛行場跡地
05:東京都・調布飛行場
06:東京都・東京国際空港(羽田空港)
01:新潟県・新潟空港
02:新潟県・佐渡空港
27:長野県・松本空港(信州まつもと空港)
28:富山県・富山空港
29: 石川県・能登空港
30:石川県・小松空港
31:福井県・福井空港
103:岐阜県・飛騨エアパーク
74:岐阜県・各務原飛行場
71:静岡県・富士川滑空場
72:静岡県・三保飛行場
77:静岡県・静岡空港(開港前)
76:静岡県・浜北滑空場
75:愛知県・岡崎滑空場
73:愛知県・名古屋飛行場(県営名古屋空港)
59:兵庫県・神戸空港(マリンエア)
34:兵庫県・但馬空港(コウノトリ但馬空港)
33:鳥取県・鳥取空港
32:鳥取県・米子空港
94:岡山県・邑久滑空場
95:岡山県・岡山空港
61:岡山県・岡南飛行場
50:岡山県・笠岡地区農道離着陸場(笠岡ふれあい空港)
96:広島県・広島空港
98:広島県・豊栄飛行場
49:広島県・広島西飛行場
97:島根県・石見空港(萩・石見空港)
48:山口県・山口宇部空港
四 国
99:愛媛県・松山空港
43:高知県・高知空港(高知龍馬空港)
100:香川県・高松空港
101:香川県・高松空港跡地
102:徳島県・徳島空港
九 州
21:福岡県・福岡空港
35:福岡県・旧北九州空港(運用当時)
〃 (廃港後)
47:福岡県・北九州空港
23:佐賀県・有明佐賀空港
22:長崎県・長崎空港
25:熊本県・熊本空港(阿蘇くまもと空港)
24:熊本県・天草空港
26:大分県・大分県央飛行場(大分県央空港)
46:大分県・大分空港
45:宮崎県・宮崎空港
44:鹿児島県・枕崎空港
55:沖縄県・北大東空港
54:沖縄県・南大東空港
53:沖縄県・旧南大東空港跡地
41:沖縄県・伊江島空港
78:沖縄県・上本部飛行場跡地
79:沖縄県・ボーロー飛行場跡地
58:沖縄県・那覇空港
40:沖縄県・粟国空港
57:沖縄県・久米島空港
36:沖縄県・宮古空港
37:沖縄県・多良間空港
38:沖縄県・石垣空港
56:沖縄県・波照間空港
39:沖縄県・与那国空港
海 外
51: ニュージャージー州・ニューアーク・リバティー国際空港
108:グアム国際空港
時々フラフラと車でどっかの空港見学に行くのが趣味だったのですが、「全国の空港をこの目で見てみたいゼ!」と思い立ち、「目指せ!全国の空港制覇運動(仮称)」を始めたのが2004年8月(関連記事)。訪れた空港についての記事もだんだん増えてきたので、空港のリストなど作ってみました。
空港名をクリックするとその空港の記事に飛びます。空港名についている数字は(大体)訪問した順番です。 未リンクの空港は今後記事を公開する予定の空港です。空港は「空港探索」のカテゴリーで固めてありますので、ダーッと流し見したい方はカテゴリーをご覧くださいませ。
時刻表に載っていない飛行場、滑空場、跡地なども行く予定ですので、全国制覇はまだまだまだまだ先です。作者:とり
更新日:2008年11月21日 10時38分
埼玉県・児玉飛行場跡地

埼玉県児玉市。
かつてここには陸軍児玉飛行場がありました。
戦後入植者により開墾され、現在一部は工業団地になっています。

工業団地周辺

飛行場跡地の一角にこのような記念碑があります。
複数の石碑があり、裏側にも文字が彫られているのですが、

このようにぐーっと一周できるよう整備されています。
通路には大型のクモの巣がたくさん張られていますので、
通る時は十分注意した方がよいです。

(裏側)
碑文(全文)
第二次世界大戦の苛烈な戦局下、当地に建設された児玉飛行場の生涯は、まさに戦いの厂史であった、即ち陸軍航空特別攻撃隊の出撃基地として、日本々土に来襲する敵軍の勢を砕く古今未曽有の航空作戦に貢献した。
児玉飛行場の栄誉は埼玉県はもとより全国に其の名を馳せている。
其の建設を胸に秘める児玉郡下市町村住民の血と汗の協力に拠る「八丁八反の飛行場」こそ日本最後の砦として神洲不滅の奇跡を信じ、各種団体から小学校児童に至るまで、困苦欠乏に耐えつゝ工事に奉仕し、昭和十七年春より約一年有半の歳月を経て完成した。
昭和十八年十月熊谷陸軍飛行学校児玉教育斑(初代隊長浅井策大尉)として使用開始し、同校の九十五式一型練習機が初めて児玉飛行場に着陸した。
先ず、暁部隊の将校、下士官学生十五名に飛行機の操縦技術を施し前線に送った。
続いて、昭和十九年四月学徒動員の陸軍特別操縦見習士官二○○名が入校し、児玉教育隊と改称され、三ヶ月の最短期間に操縦教育を終了し陸軍特別攻撃隊要員として第一線に配属された。
又同年八月、第一練習飛行隊の編成を見るや全将兵は、児玉郷の山河に別れ南国ジャワ島に移駐した。
同年十月児玉基地と改称、第一四四飛行場大隊が配備され、各分科飛行部隊及び、特別攻撃隊の基地、拠点となって帝都の防衛、硫黄島攻撃、或いわ太平洋近海を遊弋する敵機動艦隊に対する攻撃等、重要航空作戦の任に当たった。
昭和二十年八月十五日大詔を拝し戦局を結ぶ、児玉基地は、映画「日本の一番長い日」によって全国民に伝えられたが、祖国日本の栄光を背負って戦った、児玉飛行場は尊くも又悲しい無限の教訓を残して、その思い出だけを住民、軍関係の記憶に止どめて日本と運命を共にし、三年有余の厂史を閉じた。
我が民族の限り無い雄叫は、厂史の試練に苛なまれ乍らも、同年秋、百十余名の開拓団員の入植となり、農耕地にすると同時に一部は工業団地として再生し今日に至る。
戦後三十五年を閲し、往時の□(留?)魂、姿を偲ぶ何物もなく、追想のみ錯綜し物心共に漠々たるものを覚ゆる時此の縁故ある地に生存する有志の悲願が凝って記念碑建立の声こんこんとして湧くが如く起る。
幸にして地元同志の篤志と物心両面の援助と更に碑建設の諸般に亘り住民各位の甚大なる協力を受けたことはまさに天佑神助と信じ共に感謝するところである。
茲に熊谷陸軍飛行学校、第一練習飛行隊第一四四飛行場大隊の関係者並びに地元有志の発願により、児玉飛行場を飛び立ち祖国の為に散華された幾多将士を始め教育訓練中殉職した戦友の冥福を永久に祈り、再び戦争を繰返さないことを願いつゝ世界の平和と日本の繁栄を祈念してこの碑を建立する。
昭和五十五年十一月十五日 児玉飛行場跡記念碑建設委員会

この石碑の裏側には、輸送飛行隊で殉職した方の階級と氏名が彫られていました。

第四教育飛行隊鎮魂碑(抜粋)
児玉飛行場跡に、護国生死を共にと集いたる第四教育飛行隊に在籍の士が、今茲に訓練中、不幸その任に殉ぜし者、或は米機襲来に斃れし者を部隊終焉の地に、永えに眠られん事を願い、この碑を建立する。
部隊は昭和十七年滋賀縣八日市に飛行第三戰隊北方進出の後を享け軽爆撃機操縦者の戰技訓練を主務とした新設部隊であったが、戰局の推移に鑑み、南方補給作戰更に名阪神地区の要地防空戰斗等の戰斗行動に参加、昭和二十年三月部隊はこの地に移駐、戰局漸く悪化するや本然の任務たる教育訓練から特別攻撃隊の養成へと変遷を経て、振武第二九九隊、三○○隊、三○一隊、三○二隊、三○三隊、三○四隊を編成、沖縄特攻作戰の為南下征途に就かしめた。
此の間の訓練においても幾多の尊き命が失われたが屍を越え国の護持に訓練は日夜を分かたず続けられた。
二十年八月に入るや米機の空襲も熾烈を極め対空戰斗においても戰死者が出るに至った。
斯くして頽勢の挽回ならざるまゝに終戰の日を迎えたが、青春の血滾る憂国の至情も詔勅の渙発に旬日を出ずして敗戰の處理を完了、茲にこの児玉において部隊の歴史は閉ざされた。
短期間乍ら苛酷な情勢下における児玉飛行場での生活の一日一日は終生忘れ得ぬものがあり、更に幽明境を異にした幾多の戰友をこの地に残したまま家郷に戻らねばならなかつたことは断腸の思であつた。
離散の日より三十七年を歴し、今漸く兄等の安住と、兄等に心の再開を願える地を、児玉飛行場之跡碑奉賛会の御厚志により得ることが出来、この碑の建立される日を迎え得た。
昭和五十七年十月十日
八日市会
冲之原会
児玉会


碑の片隅に野ざらしになっている金属の塊。
プロペラかタイヤの軸かと思ったら、焼夷弾の残骸だそうです。

近くの公民館にも碑がありました。
碑文(全文)
当開拓地は太平洋戦争遂行の為航空後方基地として終戦二年前に完成した旧陸軍児玉飛行場跡地である
戦後緊急食料増産対策として 基地残留部隊員を基幹として復員軍人引揚者開拓者及び周辺町村の次男三男百十六名を以って昭和二十年十月開墾に着手した
以来三十年困苦に耐え欠乏を忍んでひたむきの努力を重ねて今日に至る
ここに三十周年を迎へるに当り今は亡き友と共に入植者の足跡を記し子孫の繁栄を祈りこの碑を建立するものである
昭和五十二年四月二十日
児玉開拓農業協同組合

106:埼玉県・児玉飛行場跡
訓練生を送り出すと飛行場は使命を一変させ、
激戦地へ食料や兵員を空輸する実戦基地となりました。
硫黄島への出撃なども行い、かなりの死傷者を出しました。
しかし支援物資はほとんど友軍の手には届かなかったようです。
終戦時には本土決戦用の飛行機約80機がほぼ無傷で残っていたそうです。
余談ですが、8月15日のポツダム宣言受諾演説後、
海軍厚木基地司令は徹底抗戦を強固に主張。
これに当児玉基地も同調しました。
厚木基地司令は憲兵により逮捕、海軍病院に監禁されましたが、
これに納得できない部下らが零戦・彗星・彩雲など計32機に搭乗して厚木基地から脱出。
このうち彗星など13機が未だ抵抗を続ける陸軍児玉飛行場に降り立ったのですが、
すぐ厚木に連れ戻されるという一幕があったのだそうです。
埼玉県上里町嘉美1183
余談:「帝都防衛??」
「操縦技術習得」、「輸送」、「特攻隊」 、「敵艦隊攻撃」、「敵基地攻撃」等、様々な任務を担った児玉飛行場でしたが、その1つに「帝都防衛」がありました。
時々この周辺を車で走るオイラからすると、これには違和感を感じます。
「敵の艦載機、爆撃機相手にこんな奥地からはるばると?? ・・・随分悠長だなぁ」
というのが第一印象でした。
上の地図の■が児玉飛行場跡です。
例えばですが、児玉飛行場から→の先っちょの部分まで車でいくとすると、
最寄のICから関越道、首都高など使って、まったく混んでなければ約80分、
日中の時間帯なら、2~3時間というところでしょうか。
下道をつかうと、一体何時間かかることやら。
そこで、当時陸軍が使用していた戦闘機で児玉飛行場を離陸して
→の地点まで何分で行けるか計算してみました。
→地点までの距離:80km
「隼(後期型)」 最高速度:548km/h
「疾風」 最高速度:624km/h
として、
時速500キロ出したとすると、所要時間は9.6分
時速600キロ出したとすると、所要時間は8.0分
です。
児玉から東京湾の手前まで10分を切るんですね。
実際にはもう少しかかるのでしょうが、大戦当時のレシプロ機とはいえ、
その早さは凄まじいものがありますね。
作者:とり
更新日:2008年11月19日 6時9分
東武熊谷線物語・2
小泉に東洋一の中島飛行機工場があり、たくさんの軍用機を生産するために
膨大な人員、資材を運ばなければならないー
まさに中島飛行機があるからこその熊谷線でした。
それが一瞬にして大きな存在意義を失いました。
今の路線を維持することすら危ういです。当然二期工事は中止。
軍事路線であり、沿線の利便性など考慮せずに建設された熊谷線は、
熊谷~妻沼間、10.1キロの沿線に住む人々の生活路線となりました。
さて、利根川を越えて、熊谷と小泉を結ぼう、という計画は中止となったのですが、
それでも、利根川の橋脚工事は治水上直ちに中止することができず、
河川の流れに支障をきたさないように工事は続けられました。
しかし工事用のセメントが極度にひっ迫し、入手難となったため、
利根川上流河川管理事務所と協議。
その結果、1947年(昭和22年)2月工事中の第7,8,9,12号橋脚の基礎井筒工と、
進行中の橋台、橋脚は万難を排して完成させることになりました。
「小泉線と接続させよう」という話はその後何度も持ち上がることになるのですが、
その可能性は非常に低く、少なくとも今すぐ使うわけではないと分かっている橋脚の建設工事-
実際に作業に当たっていた工事関係者はどんな心境だったのでしょうか。
1947年(昭和22年)7月、一切の工事終了。
これは熊谷線とその南側部分の図なのですが、
画面下の線路は前記事で出た東上線の東松山駅周辺です。
こうして見ると、東上線の東松山駅がすごく近いのが分かります。
実際熊谷駅と東松山駅は、直線距離で12キロ弱しかありません。
JRを除く私鉄としては総延長全国2位の東武鉄道の中で、
唯一隔絶しているのが東上線であり、
東松山から熊谷を経て小泉でくっつけよう、という構想もありました。
東上線から熊谷、伊勢崎、日光に一本で行けたら便利だったでしょうね~。
例えば今の時期、東上線沿線から紅葉狩と言えば、東上線に乗って秩父方面とか、
関越道で渋川伊香保方面とかが便利なのですが、
行楽に向かう先にも変化があったのではないでしょうか。
また、都心周辺ではありがちですが、この辺りも道路、鉄道、共に東京方向ばかりが
充実し、横の移動が大変です。
そういった面でも貴重な路線になったと思うのですが・・・。
その後、熊谷線は営業不振が続き、1974年(昭和49年)8月、
妻沼~新小泉間3.7kmの未成線廃止申請→許可
1978年(昭和53年)8月 利根川橋梁の橋台、橋脚、基礎井筒などの構築物撤去工事許可を取り、
1979年(昭和54年)3月までに撤去工事完了。
そして1983年(昭和58年)5月31日 熊谷線廃止。
1943年(昭和18年)12月に開業した熊谷線は、40年でその歴史を閉じ、
ついに熊谷線が利根川を越えることはありませんでした。
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 妻沼地区 編集・加工:空港探索・とり
1974年撮影の航空写真に妻沼線利根川橋の橋脚が残ってました。
1979年(昭和54年)3月までに撤去工事完了してますから、その5年前ですね。
左側の橋は国道407号です。
これは同じ部分の現在のぐーぐる写真。
橋脚はきれいさっぱり撤去され、跡形も残ってません。
残っていれば見に行きたかったのですが・・・。
写真:「国土画像情報(オルソ化空中写真) 国土交通省」
撮影年度:1974年 妻沼地区 編集・加工:空港探索・とり
1974年撮影の利根川橋南側の写真。
築堤、道路の立体交差化も済み、後は線路を敷けば今すぐにでも営業できそうです。
1945年(昭和20年)9月までに小泉との接続を目指していましたから、
工事開始や終戦のタイミングがあとほんの数ヶ月ずれていれば、
完成していたんじゃないでしょうか。
もったいなや~。
実は熊谷線が営業していた晩年、オイラはテツでして、熊谷線に乗ってました。

サインをねだっちゃうという・・・ ^^;
久々に引っ張り出して改めて眺めたのですが、
「サインください」という餓鬼のお願いに、
律儀に「東武鉄道」から書き初めて下さった車掌さんに感謝です。
熊谷線熊谷駅の時刻表をメモってましたので、こんな運行だったんだぁ。
ということで一応載せておきます。
熊谷駅発 妻沼方面
5:35 6:15,56 7:49 8:42 9:40 10:23 11:38 12:48
13:45 14:38 15:45 16:50 17:42 18:40 19:25 20:18 21:05
1日17本ですね。
6時台を除いて1時間に1本の超のんびりダイヤ、しかも始発駅なのに、
発車時刻がマチマチなのは、高崎線、秩父鉄道との接続の関係でしょうか。
そして最終がまさかの21:05。
「終電乗り遅れ」ドラマがいくつも繰り広げられたんでしょうね~。

大変見苦しい写真で恐縮ですが、その時の(友人が撮った)写真が残ってました。
撮影時期、場所は不明です。
単線、ディーゼル、一両編成。ローカル好きにはたまりません。
当時の東武カラー、クリーム一色に塗られた可愛らしい車体です。
地元の人たちからは「特急カメ号」と呼ばれ、親しまれていたのだそうです。
この熊谷線の車両、随分長いこと旧妻沼町役場(妻沼町は2005年熊谷市と合併)
の駐車場の隅っこにフェンスを張って野ざらし展示されていたのですが、
その後見なくなり、解体されてしまったのかと思ったら、
現在は熊谷市立妻沼展示館にて、屋根付の場所で大切に保管されています。
また、熊谷から妻沼まで、熊谷線の線路跡は一部遊歩道として整備されており、
東武杭もあり、旧妻沼駅周辺など、かつての面影がまだ残されているのだそうです。
当時を偲ぶ、ふいに消えてしまうかもしれない風景。いつかゆっくり見てみたいです。
この記事の資料:
東武鉄道百年史
東武鉄道 会社の沿革
Wiki:東武熊谷線
作者:とり
更新日:2008年11月17日 7時17分
東武熊谷線物語・1
東武鉄道の社史の中で、「熊谷線の建設と東上線の線路移設」という見出しがあり、
この部分に9P割いています。
「東上線の線路移設」とは、前記事で書いた松山飛行場関連のことです。
「軍の要請で敷設した線路」ということで同じくくりなのでしょう。
時期的には、熊谷線を開通させた約1年後に東上線の線路移設工事に取り掛かっています。
熊谷線は、当時東洋一の規模を誇った中島飛行機の巨大航空機工場への
物資、人員輸送用として軍からの要請で建設することになりました。
当初、熊谷線の建設許可証には、
「1943年(昭和18年)5月までに着工、1945年(昭和20年)5月までに竣工すべし」
と付記されていました。
ところが1943年(昭和18年)7月になって軍から、
「1943年(昭和18年)12月に繰り上げて竣工させるように」と命じられます。
凄まじい短縮要請ですね。
軍からの要請で建設するにもかかわらず、資材も自前で調達しなければならず、
資材不足と軍からの超工期短縮要請に応えるための苦肉の策として、
前記事でも書きましたが、複線で営業している東武日光線を単線化して、
レール、付属品、鋼板桁を充当するという荒業を繰り出しています。
「どの部分を単線とするか」は東武内でも悩んだようで、
最も影響の少なそうな区間を選んだのですが、
それでも自治体の許可を取り付けるのに50日を要しました。
1943年(昭和18年)12月5日 熊谷~妻沼間営業開始
上図の熊谷から北上している黒い線が熊谷線です。
ペイントソフトでフリーハンドで描いたのと、
詳しい路線図を見つけられなかったのとで、あちこち怪しいです。
どうかご了承くださいませ。m(_ _)m
無事工期を守って開通させることができたわけですが、
これで工事が完了したわけではありませんでした。
上の図にある通り、熊谷から妻沼まで線路を引きましたが、
中島飛行機の工場は小泉にあって、その前には利根川が立ちふさがっていたのです。
それで熊谷線を利用する中島社員たちは、終点妻沼で東武バスに乗り継いでいました。
そのため続けて工事が計画されることになります。
第2期工事は西小泉~仙石河岸間の貨物線中、
大川村地内で分岐し、妻沼駅に至る3.4kmでした。
早い話、川を渡って上の方の線路とくっつけるということです。
認可証には、1944年(昭和19年)4月までに着手、
1945年(昭和20年)9月までに竣工のこと、と付記されていました。
利根川を越えるために長い鉄橋を架ける必要がありましたが、
これまた資材不足のため橋桁の鉄鋼資材収集に困難を極めました。
川心部の長大径間の桁は、国鉄東北本線岩沼駅(宮城県)に貯積中の
「あぶくま橋梁」架け替えで発生した径間64.05mのトラス桁4連、
そして大阪の城東線淀川橋梁から発生した径間48.42mのトラス桁2連を
国鉄からの払い下げで入手することにしました。
他に、日光線小倉川橋梁からの発生品である鋼鉄桁17連、
同じく黒川橋梁からの鋼鉄桁6連を利用することにしました。
橋の設計図面を見ると、あちこちから寄せ集めた橋桁を使うため、
素人目にも形がイビツです。
総径間877.72mに及ぶ長大な橋梁工事としては異例の組み合わせであり、
当時如何に資材が不足していたかが分かります。
ところが資材不足に悩まされながらもなんとか調達の目処が立ち、
1945年(昭和20年)9月までの完成を目指して工事が進められたにもかかわらず、
完成予定の1ヶ月前、工事中に終戦を迎えてしまうのでした。
次の記事で、終戦後の熊谷線のことを書きます。
この記事の資料:
東武鉄道百年史
東武鉄道 会社の沿革
Wiki:東武熊谷線
作者:とり
更新日:2008年11月15日 8時21分